古典を読んで考えるブログ

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礼の和を用って貴しと為す ~礼儀作法の本質をよく考えよう

さて、今日の夜に日本に帰ります。

 

有子曰く、礼の和を用モッて貴タットしと為すは、先王の道も斯コレを美と為す。

小大之コレに由れば、行われざる所あり。

和を知りて和すれども、礼を以て之コレを節せざれば、亦マタ行うべからざるなり。

論語‐学而一‐12)

 

【解釈】

礼儀作法というものが全体の調和や円満な意思疎通を目的としているということは昔から重要だと言われていることです。

一から十まで礼儀礼儀と杓子定規に決まりを守ることが目的になってしまえば本末転倒で、本来の調和・円満という目的が達成できなくなってしまいます。

一方で、円満が目的といっても何でもしまりなく円満円満と言っていると規律もなくなり、親しき仲にも礼儀あり、といって関係が壊れてしまうことになるでしょう。礼儀というものは正しい人間関係、全体の円滑な人間関係を作っていくのに欠かせないものなのです。

 

私の実家は商売をしていたので、やはり普通のサラリーマン家庭よりも礼儀や義理といったことにはうるさかったように思います。義理を欠かすと何を言われるかわからない、ということで非常に気を配っていたものです。

最近テレビで「昭和生れ」対「平成生れ」といったテーマを扱った番組を見ましたが、お互いが「古臭い」だの「配慮がない」だの、喧々諤々、価値観が変わったというより、大人も子供にきちんと教えてこなかっただけなのではないかと感じました。

礼儀というものは本来、全体が上手く機能するよう、それぞれの部分が役割に応じてどんな振舞いをした方が良いか規定したもので、全体の調和を目的にしたものです。身体についても、内臓や神経、それぞれの細胞が有機的に活動して生命活動を維持しています。これと同じことです。

夫と妻の役割、親と子の役割、先生と生徒の役割、上司と部下の役割がおのずと存在し、それがあるから全体として意味のある活動ができるようになります。その関係性は時代によって変わるかもしれませんが、求められる役割というもの、果たすべき義務というものはあるはずです。

ということで、礼儀作法というものも本来的には堅苦しい形式的なものではなく、立場立場によって全体を円滑に進めていくにはどういう態度が求められているのかなと自分で考えながら行っていく、ダイナミックなものなのだと思うのです。

 

形式的な礼儀作法は「死んだ礼儀」です。全体の中で相手から求められる振る舞いを自分なりに考え、社会に貢献していく、これが礼儀の本質です。お辞儀は45度とかそういうビジネスマナー講座はそろそろやめにして、本質的なことを伝えていかないと、また「昭和」対「平成」が繰り返されてしまうことになりますね。