古典を読んで考えるブログ

東洋古典を中心に読んでいって、日常起こる出来事とつなぎ合わせて考えるブログです。

君子は器ならず ~あなたは誰

少し暑さも落ち着きを見せてきました。引き続き熱中症にはご注意ください。

 

子曰く、君子は器ならず。

論語‐為政二‐12)

 

【解釈】

器というものはそれ自体に使い道があって世の中の役に立つものです。人間でもまずは一芸一能を身に付け、世の中に処していく必要があるのは勿論のことでしょう。ただ、人徳豊かな立派な人間というのはそういった用いられ方が限定された器のようなものではありません。もっと融通無碍な、限定されない人格というものを練っているものです。一芸一能に秀でた色々な才能を束ね、使っていける人間といってもよいでしょう。

 

「器」という言葉は論語には比較的よく出てきて議論になる言葉です。器というものは実用的で便利であるけれども、用途が限定されてしまっている。その意味で残念である、というとらえ方をしています。

果たして赤ん坊というものは今後どうなるか、どのような成長を見せるか全くわからない、無限の可能性を秘めたものと言えます。一方で少し成長してくると、この子はこのへんかな、こんなものかな、と薄々将来がわかってきたりして、成人して医者になった、学校の先生になった、となるとこれは社会に有用な専門家ではありますが、一つの限定、可能性の消去であります。

 

人間は一つの職業につくと、世間が狭くなると言いますか、よほど注意していないと業界の常識を当然だと思ったり、社内人脈しかなくなったり、また自分の専門分野にしか興味を抱かなくなったりしてしまいます。定年退職した人間が、社外の知人がおらずに大変淋しい思いをしている、ということはよくある話です。

「君子」というものは一つの生き方、生きるありようのことを指しているように思います。自分自身を限定しない、誠に融通無碍、せっかく自由に生まれてきたのに何の理由があって自分自身で可能性を狭めるのか、あるいは視野を狭くしてしまうのか。世界はもともと一つである、全てはつながっている、その懐の深さこそ、君子たる所以のものではないでしょうか。

 

「あなたは誰」と聞かれて何と答えましょう。自分のアイデンティティを何に求めるか、職業か、資格か、学歴か、勤め先か、色々ありますが、所詮「私は私」でしかなく、単純なレッテル貼りは自己の限定でしかありません。その「無限定」に耐えることができる人、それが君子といえるのかもしれません。