古典を読んで考えるブログ

東洋古典を中心に読んでいって、日常起こる出来事とつなぎ合わせて考えるブログです。

君子は食飽くを求むるなく ~人間として生まれたからには

妻が里帰り出産から帰ってきてやっと家族生活が再開です。

家族は一心同体、この普通の幸せをかみしめて毎日を一生懸命過ごしたいです。

さて、そんな今日は次の章です。

 

子曰く、君子は食ショク飽くを求むる無く、居キョ安きを求むる無し。事に敏ビンにして言ゲンに慎み、有道ユウドウに就きて正す。学を好むと謂うべきのみ。

論語‐学而一‐14)

 

【解釈】

学問を好む人は、食べ物で贅沢を言ったり住居で文句をいったりすることはありません。そういう肉体的・物質的な欲望には執着せず、一方で何か物事に臨んでは頭をフル回転してキビキビ対応し、滅多なことを軽々しく発言することはしません。そしてその道のプロ、真理を極めた達意の人に教えを請うて自分を正していくものです。こういう人ならでは、学問を好むということができるのです。

 

およそ学問をするということの目的というのは何なのだろうと思うわけです。立身出世でしょうか、良い暮らしをして贅沢をするためでしょうか。逆に、そういうことができなければ学問をする意味がないのでしょうか。

戦後の大学などの教育はこのあたりがはっきりしないまま教養教育をしたり、実務を教えたりフラフラしてしまって、要を得ない教育がはびこってしまっているように思います。大人も、いい大学にいって、いい企業に入れば一生安泰だなどと未だに思っている節があり、それが戦後たった30年程度の束の間の流行だったことにすら気づいていないかもしれません。

荀子に「夫れ学は通(=出世)の為にあらざるなり。窮キュウして苦しまず、憂えて意ココロ衰えざるが為なり。禍福終始を知って惑わざるが為なり。」とあります。物質的、経済的条件から心を解放すること、そして世の中の因果関係を知って惑いをなくすことが学問だというのです。

自分を磨いていくことは、安逸な生活を求めるわけではなくて、まさに継続的に自分を修めていくこと、そして世の中で立派に身を立てて役になっていくこと、ということでしょう。それは机上の学問や本を読んだりすることに限りません。

もちろん、経済的な条件が全く意味がないというわけではないでしょう。それはそれとしてとても重要な要素ですが、それだけではなく、そこに精神的な部分、社会的な部分をより高めていくことこそ人間として生まれた甲斐がある、そういうことなのだと思うのです。