古典を読んで考えるブログ

東洋古典を中心に読んでいって、日常起こる出来事とつなぎ合わせて考えるブログです。

未だ貧しくして道を楽しみ、富みて礼を好む者には若かざるなり ~貧富を乗り越えろ

企業を辞めて独立して約半年、多くの人に助けてもらいながら色々と挑戦しています。そんな中で生き方について考えさせられることも多く、論語に学ぶところも多いものです。

今日は貧富という大問題への処し方です。

 

子貢曰く、貧しくして諂ヘツラうこと無く、富みて驕オゴること無きは何如イカン

子曰く、可なり。未だ貧しくして道を楽しみ、富みて礼を好む者には若かざるなり。

子貢曰く、詩に云う、切セッするが如く磋するが如く、琢タクするが如く、磨するが如しと。其れ斯コレを之れ謂うか。

子曰く、賜や、始めて与トモに詩を言うべきのみ。諸コレに往オウを告げて来ライを知る者なり。

論語‐学而一‐15)

 

【解釈】

弟子の子貢が孔子に聞きます。貧しい中で卑屈に他人にへつらうことなく、裕福になっても人に対して横柄な態度にならず謙虚でいるという人間はいかがでしょうか。

それに対して孔子は答えます。まずまずの人間だね。ただ、まだ貧しい中でも悠悠自適に道を楽しむ人や、裕福になっても自分の立場をわきまえて、進んで全体の調和を保とうとするような人にはかなわないのだよ。

子貢はそれに対し、『詩経』の中に、職人が作品にさらにやすりをかけて研ぎ、また砂でこれを磨く、というような部分がありますが、まさに先生が仰ったような更に成長、研鑽を行うということを言うのですね、と感嘆します。

孔子はそれを聞いて、子貢よ、初めて一緒に詩経について語ることができるようになったね。一を言えば二を理解する、あるいは過去について言えばそれで未来のことが分かるようになったのだね。これからも精進していきなさい。

 

子貢という人は、とても頭がよく商才もあったようです。従って孔子の弟子の中では裕福な人間で、逆に富貴で人間を図るような部分もあったかもしれません。

そんな中で、「裕福になっても謙虚さを失わない自分」はできた人間ではないか、と内心思ってこの質問になったようです。それに孔子がピシャリと対応する場面です。

とても不思議なのですが、大体世間様というものは成功しないと話を聞いてくれませんし、いったん成功しても、失敗した瞬間にサーッと遠ざかってしまうものです。勝てば官軍とばかりに(経済的な)成功体験談はいつの時代も人気があります。

確かにお金がないというのは多くの場合、人間を小さくします。交通費がない、食費がない、出かけるお金がない、友達と付き合う金がない、結婚式の祝い金が出せない、そうしているうちに付き合いが悪くなって友達も減っていってしまう。自己投資の為のお金も使えなくなってしまう・・・。

お金があるというのは確かに人間を寛容にします。衣食足りて礼節を知るという言葉もあるくらいです。ただ、本人は気づいていないところで他人から「金で面をはたくようだ」と揶揄されてしまうこともあるかもしれません。

ですので、子貢のいうこともよく分かるのです。貧富にとらわれないで自分を保てる人間というのは、それだけで凄いと思います。

 

一方で、亡くなってから数年たった後の評価といったものは、あまり経済的な富裕と関係ないように思うのです。富貴というものは主観的なものです。貧しくても心豊かに楽しんで生活できる人もあれば、お金がたくさんあっても満足のいかない生活を送る方もいるでしょう。(自分が作り出した)世間の目というものに支配されてしまっているといえるかもしれません。大切なことは心の在り方、気持ちの持ちようであって、経済的なものよりも大きなよりどころを持つことだと思います。

孔子は経済的なものは自分のとらえ方ひとつであるのに、それに縛られて乗り越えようとしているようではまだ半人前だ、といいます。そんなものからは解放された生活を目指しなさい。もっと大事なことがあるではないですか、というわけです。

 

その時々の経済的状況にかかわらず自分の心の独立を守ること。これは難しいことです。貧しければどうしても卑屈になるし、成功していけば無意識に傲慢になってしまうと思うのです。でもそれは時の運、風の吹くままということかもしれません。風の吹くままで自分を見失う、そんなことではいけないので、まずは乗り越える。そしてその後は更に進んで、経済的なものからは解き放たれる心境というものがあるのだということをこの章では教えてくれています。