古典を読んで考えるブログ

東洋古典を中心に読んでいって、日常起こる出来事とつなぎ合わせて考えるブログです。

父母は唯其の疾を之れ憂う ~父子の間は善を責めず

ちょっと間が空いてしまいました。また毎日再開です。

本日は先日の孟懿子の息子、孟武伯が同じく「孝」を孔子に聞いている部分です。

 

孟武伯、孝を問う。

子曰く、父母は唯タダ其の疾シツを之れ憂う。

論語‐為政二‐6)

 

【解釈】

孟武伯が孔子に「孝」とはなんぞや、と聞きました。

それに孔子が答えます。「父母というものは、子供と言い争い、距離が離れてしまう、断絶してしまうことを心配するものです。子供というものは親には反発したくなるものですし、親も子供の言うことは素直に聞けないものですが、親子間の隔絶ほどダメなものはありません。家庭がうまく収まり、また親子代々、円満に引継ぎが行われてこそ、国が収まり、天下が治まるのです」

※「疾」=「争」に同じ(安岡正篤論語に学ぶ』pp.60-61)

 

さて、前回とはまた違う言い方をしていますが、家庭内での孝道の在り方を伝えているものだと考えます。この「疾」は通常は病気、という風に解釈されますが、ここでは「父母はただ子の病気を憂う」となると当たり前すぎて逆に不自然ですので、上記のように解釈しています。

私自身、子供を持ち、また両親が老いるに従いつくづく感じるところは、親というの者は子供の言うことを本当に聞かないものだということです。子どものことを自慢こそすれ、実際に忠告などは聞かない、そのくせ別の若い連中の言うことは「そうか、今はそういう風なんだな」とホイホイ信じてしまったりするから不思議です。そういうのが古今東西、「親子」というものなのだと思います。

晏子春秋という本に、晏子という大臣が君主に「どんなことが望みか」と聞かれる部分があります。そこで晏子は、色々と答えたのち、それでもまだないか、と聞かれるので最後に次のように答えます。

「君ありて輔タスくべく、妻ありて去るべく、子ありて怒るべし」

助けなければいけない君主がおり、出て行けと怒鳴りたくなるような妻が下り、どうしようもないと怒ってばっかりいるような子供がいる、そういうのが私の望む生活です、というのです。なんと人間味あふれる答えでしょうか。そうそう、そういう普段の日常自体がなんとも幸せであって、子供はやはり子供としてかわいいもので、また一方で自分は親としての威厳を保ちたいものです。

ここの「情」で結ばれている関係が親子であり、家庭である、そこに断絶があってはいけない、お互いが分かった上で、上手く振舞っていくのが孝道というものだよ、という風に孔子はいいます。なかなか深いです。

 

一方、自分が老人になった時には子供にどう接しようか、そう考えますと、やはり子どもは立派に一人前として扱ってあげたいように思います。自分がきちんとその判断をできるかどうか、ということですが、例えば20歳になったら一人前として扱う、という風に自分にルールを決めておくことがよいように思っています。昔の若衆組に入る、とかそういう一つの「決め」を持っておくことが大事かなと。そうしないといつまでもズルズル「まだ子供だから」と思ってしまいそうです。

ただ、自分の親も昔は「おじいちゃんやおばあちゃんみたいには絶対ならない」と言い張っていたのに、「最近そっくりだよね」というと「そう?まあそんなものかもね」と悪びれないので、そんなものかもしれません。