古典を読んで考えるブログ

東洋古典を中心に読んでいって、日常起こる出来事とつなぎ合わせて考えるブログです。

敬せずんば何を以て別たんや ~人間と動物の分かれ目

明後日からしばらく東京を離れることになりました。ガジュマルとかの観葉植物をどうしよう、と悩んでいます。

さて、本日も引き続き「孝」についての章です。

 

子游、孝を問う。

子曰く、今の孝は是れ能く養うを謂う。犬馬に至るまで皆能く養うあり。敬せずんば何を以て別たんや。

論語-為政二-7)

 

【解釈】

子游孔子に孝について聞きます。

孔子が答えるには、今の孝道は父母をよく養い、衣食住の不便をかけないことを指しているようだ。だが、経済的に支える、養うというだけでは犬や猫もペットとして可愛がっているのであって、ペットと両親との違いがなくなってしまうでしょう。そこに尊敬、敬意というものがなければ、何をもってペット愛護と孝というものを分けることができましょうか。

 

子游孔子よりも45歳若いと言われている弟子で、恐らく若い子游に対して親に仕えることを説いたものだと思います。養っているんだから孝行者だというのはレベルが低い、親に対する心の態度が重要なのだと言うわけです。

この「孝」というのは一般的には子→親への接し方になりますが、より広げて世代間の連続性を指す言葉だととらえれば、逆に親→子への接し方ともとらえることができます。親も、子供を単に養って育てればよいというものではない、子に対する経緯がなくては犬猫を育てることと何が変わるだろうか、という風にも解釈できるように思います。

さて、人間と動物を分ける本質的な違いは「敬」にあり、という風に考えています。愛は動物にもあり、この敬意の対象を求めるところに人間の尊いところがあるように思うのです。幼子が父親の帽子をかぶり、ぶかぶかの靴を引きずって歩くのは、決してバカなことをと嘲笑する対象ではなく、父のようになりたいという涙なくしては見ることができない人間の本質的な欲求を表しているのです。

 

お互いがお互いを敬する、尊敬する、このことはなんと難しいことでしょうか。特に親子間というものは感情的に反発しやすいですから、余計に難しい。論語の別の場所に「妟平仲善く人と交わる。人、久しくして之を敬す」とありますが、時間がたてばたつほど尊敬される人など、そうそういるわけではありません。

父は父なりに、子は子なりにお互い尊敬しようという意思を持つこと、そしてお互いが尊敬されるように自分を磨いていくこと、この心構え、ある種の「緊張感」が人間を人間たらしめているということを言っています。逆にその緊張感、ピリッとしたものがなければ動物と変わらないという手厳しい批判だともとらえられます。

 

自分自身を顧みて、孝を尽くしているか、と考えればまだまだ難しいことばかりです。