古典を読んで考えるブログ

東洋古典を中心に読んでいって、日常起こる出来事とつなぎ合わせて考えるブログです。

夫子是の国に至るや ~人に認められたい気持ちについて

東南アジアではスコールに会うことがよくあります。あっさり止むのですが、ビショビショにならないように、今ケンタッキーに避難しました。

どの宗教でも鳥は比較的問題なく食べられるのでマレーシアではケンタッキーは人気です。横ですごい列ができています・・・。

 

子禽シキン子貢シコウに問うて曰く、夫子是の国に至るや、必ずその政マツリゴトを聞く。之を求めたるか、そもそも之を与えたるか。

子貢曰く、夫子は溫良恭倹譲オンリョウキョウケンジョウ、以て之を得たり。夫子の之を求むるや、それこれ人の之を求むるに異なるか。

論語‐学而一‐10)

 

【解釈】

子禽が子貢に聞きます、孔先生はどの国に行っても、必ず君主や大臣から政治についての質問をお受けになります。これは弘先生が自らご自身を売り込んでいるのでしょうか、それともやはり先方が望んでいることなのでしょうか。どの国にいっても認められるということはどういうことなのでしょうか。

それに子貢が答えます。弘先生はその内面の徳が容貌、言動に表れているので、どの国へ行っても人物として扱われるのだよ。それに弘先生が認められようと求めているのは仁に基づいた政治を実現しようとしているからであって、普通の人のように自分の名声や見栄を求めているからではないのではないかな。

 

孔子のお弟子さん同士の会話です。子禽は子貢の弟子という説もあります。

人間には自ずとレベルがあるように、子禽にとってみれば、なんで孔子がどこの国でも珍重され人物として扱われるか分からないようです。自分を売り込んでいるのでしょうか、どうやって?なんともよくある問いかけではないでしょうか。

認められたい、はやく出世したい、はやる気持ちが誰しもあるものです。商売でもそうですが、どこの馬の骨から早く認めてもらいたい、どうやったら一人前のパートナーとして扱ってもらえるのか、あの手この手で考えます。やっぱり人脈?プレゼンテーションのやり方かしら。

そこに年長者の子貢がピシャッと言い返します。

孔子がどこに行っても丁寧に扱われるのは内面の徳が表面に現れているからだ。そもそも孔子が各国の重鎮に認められようとしているのは、よくある出世欲などではなく、より偉大な夢があるからではないのか、ということです。

 

人に認められる為には、自分をよく見せようとか、自分が出世したいとか、そういう思いからですとどうしても「えぐみ」というか、変な毒が出てしまいます。もっと大きな公共心、夢に参じて、全体のことを考えて努力している姿に人は心を動かされるのです。稲森和夫さんも「大義」の大切さについて常に語っておられますが、同じことだと思うのです。

もちろんそんな綺麗事でやっていけるかよ、という御指摘も当然だと思いますし、現に孔子も実際に政治に参画できる機会は多くありませんでした。世の中そんなに綺麗事ばかりでは進んでいけません。

しかしそうした夢を語ることで孔子は今なお世界で重んじられ、稲森さんも成功されています。松下幸之助は経営の神様になりました。

逆に言うと、そうした全体への公共心がなければ世間には認められないということでしょう。才能があっても関係ありません。人が世の中で生きていくのは、そういうことなのだとこの章は伝えていると思います。