古典を読んで考えるブログ

東洋古典を中心に読んでいって、日常起こる出来事とつなぎ合わせて考えるブログです。

終りを慎み遠きを追う ~歴史と文化の積み重ねとは

今日はマレーシア国立博物館に行ったのですが、衝撃的なことに、展示室が4部屋しかありませんでした。

国の歴史が4部屋。先史時代、マラッカ王国時代、植民地時代、現代の4区分です。1時間あれば見て回れます。日本にいると感じませんが、この歴史の積み重ねというものの違いをしみじみ感じました。

 

曾子曰く、終りを慎みて遠きを追えば、民の徳、厚きに帰す。

論語‐学而一‐9) 

 

【解釈】

両親がなくなれば手厚く葬儀を行う、普段から祖先をきちんとお祭りする、そういう永遠なるものへの敬意を指導者が持ち、実践していけば、民衆の徳も自然と積みあがっていき、醇風美俗、良い文化を形成していくものです。

 

一神教の「神」というものを明確に意識したことがない私は、神様仏様で育ってきていますし、結局お墓で先祖に手を合わせるということを子供のころから教わってきました。そういった自分たちにつながる先祖、永遠への接点をなくしてしまえば、自分の存在までフワフワしたものになってしまってしまうような気がします。

積み重ねてきたものの上に自分がいる、そういう感覚が民族意識だったり、また文化の連続性であったりするのではないかなと思うのです。

国にとっても、よく日本の首相が靖国参拝で問題視されますが、戦死者だけでなく今までの先祖全体をお祭りすることがより大切なような気がします。靖国の問題は外交カードにさせてしまったのでややこしいですが、日本側できちんと整理をした上で整斉と行えばよいと思います。

 

一方で、今来ているマレーシアのような植民地のように、歴史が断絶している、文化が断絶している国にとってはどうなのでしょう。日本は本当に恵まれた国、また珍しい国なのだなと思いを新たにしました。

エストニア電子政府を作り、世界最先端の電子立国になっています。国民はIDカードをスマホのチップに組み込んでおり、どこからでも投票できるし、自分のデータも引っ張ることができます。なぜ?と聞くと、いつロシアに攻め込まれて国民が散り散りになるかわからない。そうなってもエストニア国民としての連帯を保つためだと言っていたそうです。

自分たちの文化、民族性、アイデンティティというものを失わないこと、それ自体が人間にとって欠かせないことなのでしょう。簡単に世界政府だとか国際人だとかいうことはできません。のっぺらぼうな人になってしまいます。

それが意固地な国家主義になってはいけませんが、立派な日本人であること、そのことが立派な国際人につながること、世間の指導者がそうなっていくことが日本全体のレベルを上げていく事になると思います。