賢を賢として色に易え ~実践してこその学び
こうやってゆっくり論語を読んで考えることもあまりなかったので、このブログを書き始めてから「論語読みの論語知らず」だったなあと反省。
いつになっても気づきはあるものです。
さて、今回は昨日の章と対をなすような内容です。昨日は孔子から弟子への言葉、今回は弟子の子夏の言葉です。
子夏曰く、賢を賢として色に易え、父母に事うるに能く其の力を竭くし、君に事うるに能く其の身を致し、朋友と交わるに言いて信有らば、未だ学ばずと雖も吾必ず之を学びたりと謂わん。
【解釈】
直に接するにせよ私淑するにせよ、賢人を尊敬してなんとか近づきたいと情熱を燃やし、両親に仕えるときは自分の全力を尽くし、君主に仕えるときは水火も恐れず身を挺して職務を全うし、友と交流するときは言ったことは必ず守って誠実であれば、「私はまだ充分学んでいないのですよ」と謙遜していても、私は必ず「十分学んだ方だ」と言うでしょう。
内容としては昨日の章と同じで、学ぶということは実践をきちんと行うことだということでしょう。お師匠さんを慕う言い方が「色に易え」(=情欲に代える)というのが面白いですね。尊敬というのは恋心に通じるものがあるのかもしれません。
学びの目的は実生活で身を修めることであって空理空論をもてあそぶことではない、というのは非常に大切な指摘です。実践の伴わない理論・学問というものは危険ですらあると思っています。
ある神父さんが神学の研究に没頭して聖書の研究にいそしんでいたころ、別の神父さんに「卵を温めてみないか」と諭されたという話を聞いたことがあります。
「この卵を調べれば、確かに殻の部分はカルシウムがどれだけ、とか中身はタンパク質がどう、脂肪がどう、というのはわかるかもしれない。それはそれでとても大切なことだけれども、この卵を温めると雛が生まれるんだ。そのこと自体奇跡ではないだろうか」
このことを聞いてその神父さんは忽然と悟り、それからは伝道活動を熱心にされたとのことです。
私はこの話にいたく衝撃を受けまして、同じようなことが日常生活で頻繁にあるのではないかと反省しました。実践のない理論はいかに高尚なものでも殆ど意味がありません。人間生活に何らかの意味がなければ、やはりそれは空理空論のそしりを免れないと思います。論語も実践的に使ってなんぼ、あまり考証学的に詮索し過ぎてもいけませんね・・・。
なお、渋沢栄一の『論語講義』によれば、木戸孝允と伊藤博文は有言実行、西郷隆盛と山形有朋は不言実行、後藤象二郎と大隈重信は言ったことを全部はやらない人、黒田清隆と江藤新平に至っては言い出したことは無理でも横車を押すというタイプだったとこの章の説明で書いています。さて自分はどのタイプかな・・・。
【参考】関連記事
mindseeds-classic.hatenablog.com