古典を読んで考えるブログ

東洋古典を中心に読んでいって、日常起こる出来事とつなぎ合わせて考えるブログです。

巧言令色、鮮し仁 ~他人中心で生きることはやめよう

最近急に暖かくなりました。日も長くなって嬉しくなりますね。

今日は論語の中で何度も言及される内容です。

 

子曰く、巧言令色、鮮し仁。

 

【解釈】

雄弁家のように言葉を美しくしたり、芸能人のように外見を華美にしたりすることは、おもねり・へつらいに通じ、思いやりや慈しみといった真心ある人間性とはほど遠いものです。

 

上司が思ってもいない褒め方をすると部下は嫌な気持ちがするものです。

壮大なキャッチコピーの踊る誇大広告もどこか胡散臭い。

人を惹きつけようとすればするほど、実際は遠ざけてしまう、中身の空虚さが透けて見えてしまう、そういうことは多いものです。

本人にそのつもりはなくて、一生懸命やっているのかもしれません。でもそう感じるのは何故なのでしょうか。

自分をよく見せようと、他人基準に合わせてしまって、結局真実の自分が分からなくなる、(昔流行った)自己疎外なのかもしれません。そうやって作った人間関係というものは、結局中身がありませんから、華やかに見えても実質は空虚なものです。

グレートギャッツビーの華やかなパーティーは虚構ですが、恋人を思うギャッツビーの心という一点において本物です。だからこそ、「クズばかりの世の中で、君だけが価値がある」という名台詞に心をつかまれるのです。

 

言葉や外見というものはその人の人格を表すものだとつくづく思います。

結婚式で長々とありがたい挨拶を聴くよりも、涙ぐみながら一言、「・・・おめでとう。幸せになってね。」と親友に言われる方が感動することもあるんですよね。

 

小学生になったらお世辞の一つも言えなくちゃダメよ、ともいいます。

お世辞というのは、近所のおじさんに「いつも両親がお世話になっております」とか、来客者にきちんと挨拶ができるとか、そういうことです。

これは礼というもので、これがなくては生活にメリハリがつかなくなってしまいます。武道でいう所の「型」と同じだと思います。

 

いずれにせよ、言葉にせよ外見にせよ、礼を失わないようにしながら、真実の自分を表すものでなくては本当の人間関係は築けませんよと。型を守りながら自分自身を伝えていかねばなりません。これには修業がいるのだと思います。

人から良く思われたいとか、こうした方がモテるとか、本質はそういうところにはないということに、案外日常生活で私たちは気づきません。

自分を軽くしない。頑張ります。