退いて其の私を省みれば亦た以て発するに足る ~一日一工夫でも
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子曰く、吾ワレ回と言う。終日違タガわざること愚なるが如し。
退シリゾいて其の私ワタクシを省みれば、亦マた以て発するに足タれり。
回や愚ならず。
(論語‐為政二‐9)
【解釈】
孔子が弟子の顔回と話をしていても、顔回は一日中先生の言うことをじっと聞いているだけで何も言わず、本当にわかっているのかどうかもわからずに馬鹿ではないかと思えてしまうほどです。
しかし一旦孔子の前を退席して私生活を見てみると、どうしてどうして、孔子の言ったことを理解していないどころか、自分なりの工夫も見られ、孔子自身も教えられることが多い、実に一を聞いて十を知るような人間でした。顔回は(孔門随一といわれるだけあり)決して馬鹿な人間ではなかったようです。
孔子が人をほめるというのも珍しいですが、顔回はそれほどの人物だったようです。後の章にも顔回が夭折してしまったとき、孔子は「天、我を滅ぼせり」と嘆きます。亡くなったのは顔回ですが、私を滅ぼしてしまったと嘆くくらい、顔回を見込んでいたのでしょう。
今の学校教育では「こうしなさい」「ああしなさい」と教えますが、そこから一歩踏み込んで「なぜそうなのだろう」「自分だったらもう一工夫してこうしよう」と考える人間がどこまでいるでしょうか。
言われたことをうのみにするのと、一旦頭で考えてから実践するのでは全く違いますし、工夫を続けていく中で、結局最初のやり方に戻ったとしても、その理解の深さには雲泥の差があるように思うのです。
テストは覚えたことを吐き出すだけ、で通っていくのは20世紀の日本だけ、これからは「自分はどう考えたか」「どう実践していくか」という主体性と実践性を問われることになるでしょう。その観点から、この顔回の行動は素晴らしいものです。
一日一工夫でよいので毎日続けること、1年たてば365個の工夫、3年たてば1000個以上の工夫ができるはずです。その継続性が彼我の差を大きくします。
競争に勝つには、ダントツで一番である必要はありません。競馬でも鼻差、オリンピックの水泳でも爪の先の違いが金メダルと銀メダルの差を生むと考えれば、少しずつの工夫を馬鹿にすることはできません。