古典を読んで考えるブログ

東洋古典を中心に読んでいって、日常起こる出来事とつなぎ合わせて考えるブログです。

君子は周して比せず ~大きな目的のために偏しない

今日は8月15日、終戦記念日です。戦後70回目ということ。振り返れば、70年という歴史の重みを感じます。

 

子曰く、君子は周して比せず、小人は比して周せず。

論語‐為政二‐14)

 

【解釈】

人徳の完成した立派な人間と徳の薄い人間、社会の中で生きる以上、共に他人と仲良くしてうまく付き合うものです。その違いは何かというと、それは立派な人は誰とでも公平に偏らずに付き合い、親疎の厚薄はあっても好き嫌い云々ではない付き合い方をする一方で、徳の薄い人間は自分の私利私欲に基づいて徒党を組み、誰とでも公平に付き合おうとしないところにあります。

この二つは周りから見ると一見分からないようにも思えます。共に誰とでも仲良くしているようにみえるのです。これは人との交友の心構えであって、おのずと結果は変わってくると思います。

 

比周という言葉はここからきています。遍く公平に人と付き合うことと、私利に偏った付き合いをすること。「比」という漢字は「人」が二人並んだ漢字で、比べる意味にもなりますが、徒党を組むという意味にもなります。

この章は(相変わらず)痛いところをビシッとついていると思います。

人は社会生活を営む以上、誰かと付き合い、必要であれば家族を作り、企業を作り、政党を作りと組織を作ります。これは自然の成り行きです。ただ人によって目的が違うといいます。立派な人間は「公」の心、徳の薄い人間は「私」の心から人とつるむというわけです。

突き詰めれば、これは個人一人一人として独立した人格を持っているか、ということでしょう。君子は独を慎む、慎独という言葉がありますが、自分の中に絶対的な価値観を持っている人間は人とつるむ必要がありません。孤独に耐える力を持ちます。一方で、自分の中に確固としたものがない人は、他人と肩寄せ合ってお互い依存しあうしかないともいえます。

 

昨今の政党にせよ、天下国家のために大きな視点で物事を捉え、主義主張の違いで党派を組むのと、我田引水、地元に利益を、といった形で党派を組むのは違います。これは一見分からない、心の部分であり、人は常にどちらかにふらふらっと行ったり来たりしているのではないでしょうか。

大きな目的のために偏しない。これには修養が必要です。やせ我慢も時には必要になるかもしれません。心したいものです。